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瑞泉寺

「お嬢様、今日はどちらまで?」
「メルヘン風車に お乗りになられませんか?」
「お話をしながら、お好みの場所まで旅のお供をしますよ。」
「そうですか、瑞泉寺ですね。お乗りくださいませ」 「さぁ、出発しますよ!」

人力車

「お嬢様、ところで 瑞泉寺への旅の目的は何ですか?」
「いろいろあって 頭を一度 空っぽにしたくなったので、気分転換の為です。」
「あの辺りは、比較的鎌倉にしては静かで観光客も少なく、リフレッシュに最適ですよ」
瑞泉寺は鎌倉幕府の重臣であった二階堂貞藤(道蘊)が建立し 今も現存する、夢窓疎石作の書院庭園があります。岩盤を彫刻的に掘った洞窟「天女洞」や、飛び出した岩の周りを池に見立てるなど、鎌倉特有の地形、地質を存分に生かした庭園となっています 日本庭園の分類として「池泉」「枯山水」「露地」の3種に大別できますが、ここは非常に珍しい石の庭で天女洞、池、中島、滝など、庭の約束事をすべて備えた 池泉式庭園です。
かつては草木に埋もれていましたが、1969年(昭和44年)に古面図を基に発掘されたものが、私たちが今、目にすることのできる庭園です。

「えっ? これが庭園?」と思う方が大半のようです。池の橋の奥にある階段は十八曲階段と呼ばれ 人ひとり歩ける程度の石段です。今はこの石庭内が 全て立ち入り禁止になっていますが 昭和43年ごろまでは 自由に石庭や石庭の裏山から ハイキング客などが 出入りできたそうです。

「殺風景で不思議な感じがする庭ですね、なぜなのかしら?」
「知りたいですね。一緒に夢想礎石の生きた時代へ 少し、タイムスリップしてみましょう」
そう 僕が車に言うと、人力車は、飛ぶように風の中を走り、ストンと 季節は春の、瑞泉寺の庭に降り立った。

 

瑞泉寺2

 

お坊さんのような墨衣を着た人が庭をほうきで 清めています。
きっと あの方が、後に夢想礎石と呼ばれる方ですね。
「あっ、武士のような人が 夢想礎石を訪ねてこられましたね。」
「ひとりで本当に静かな場所でゆっくりと考えたいのです」
すると、夢想礎石が 「そうですか、では、あの洞穴の中は静かですから、どうぞごゆっくり。」と促し、武士が池の中島を通り、洞窟へ入って 座禅を組み始めました。

私たちは邪魔をしては申し訳ないので、その間に、庭園内の他の場所を見て回りましょう。
ここには「どこもく 地蔵」 というお地蔵さんがあります。鎌倉二十四地蔵の第7番札所。元々は扇ガ谷の地蔵堂にあったものが瑞泉寺へ遷って来ました。ある時、堂主が貧しすぎて逃げ出そうとしたところ、お地蔵さまが夢枕に立ち「どこも苦、どこも苦(苦しいのはどこへ行っても同じだ)」と言ったと伝わっています。

その後、堂主は、自分が逃げ出したら また、このお地蔵さまは、どこかへ移され、今の自分と同じように苦しまれるので 自分がこのお地蔵様を守り 安住の場所を作って差し上げようと決心し、寺の敷地内に畑を作って 作った野菜を煮込み お参りに来られた方に 差し上げることにしたのです。

すると、参拝客も増え、このお地蔵さまが、天から大黒天や恵比寿様を呼び寄せ、今は、この場所をおまいりに来られる方々の 苦を抜く 苦抜き地蔵となって慕われております。「どこも苦」というのはお地蔵さんだって 苦しい時があるということで、どんなに恵まれて見える人にも苦はあることを教えて下さる お地蔵様でした。
石庭に戻ると、ちょうど あの武士が 洞窟から出てこられたところでした。

「あの洞窟で座禅を組んでいると、私は夢を見たようです。今は亡き 母の夢です。
私が生まれた時に、良かった、良かった、元気に育て、と家族が大きな声で喜び、笑っている夢でした。あの洞窟に入ると 守られている感じがして、まるで、母の胎内にいるようでした。目を開けると、青空に薄桃色のしだれ桜が入り口を飾り、黄色や白の水仙が咲き、紫のショカッサイが咲き乱れ、私が生まれて生きてきたところは、なんと美しかったのだろうと思うと、涙が出て参りました。

「お母様にお会いできて良かったですね。母は子供にとっては天女です。あの洞窟は天女洞と 名づけましょう。」と老師が申しました。
「あの洞窟は、洞窟の中から 外をみると 美しい景色が見られるように造ってあるようですね。」
洞窟のある石庭は、私たちが生まれる前の母の胎内、又は黄泉の国をイメージして作られていたのかも知れませんね。極限の静けさを求めると、生の反対の死の国、墓に行きつき 究極の 境地を 重んじる禅の本質を表現したものだから、殺風景に感じたのかも知れませんね。

 

「さぁ、そろそろ、日が暮れてきました。帰りましょう。人力車に はやく乗って!」
人力車にお客様を乗せて「2019年 4月10日 鎌倉へ」

そう言うと、強い風がサーッと吹いたかと思うと 現代の鎌倉 瑞泉寺に到着していた。

「ねぇ、人力車のお兄さん、あの武士は誰だったの?」
あの武将は 足利尊氏の弟、足利直義です。

兄 尊氏とともに建武政府の成立に貢献し、兄弟は、室町幕府を創設しました。室町幕府は当初 尊氏と直義との二元政治が行なわれていたのですが,尊氏の執事 高師直が直義と対立したのを発端に,尊氏と直義との争いとなり,直義はその地位を追われて出家しました。

何度も天女洞に入り、兄との和睦を祈ったようです。その洞窟を造った老師が 夢みる窓の洞窟を造った人ということから、当時から夢窓国士と 皆から慕われるようになったようです。
疎石は足利家の内紛では 双方の調停も行い、この間に北朝方の公家や武士が多数、疎石に帰依しました。
夢窓国師(1275〜1351年)は円覚寺開山仏光国師の孫弟子で、鎌倉時代から南北朝時代に
円覚寺、南禅寺、浄智寺など五山の住職に就かれること八度、天龍寺、恵林寺など開かれた主なる寺 六ケ寺、後醍醐天皇はじめ 南北両朝の帝から賜った国師の号は七つ、夢窓国師・正覚国師・心宗国師、死後に普済国師・玄猷国師・仏統国師・大円国師と これにより 世に〈七朝の帝師〉と称えられました。

工夫なしというのは、無心のことです。無心でする仕事は、美しく長続きして疲れず世のためになり、実も結びます。上手く生きたいとか、上手く見せたいとか、技巧に走ることを嫌い ただ、型に従って動作し無心になることを願うものです。
型を覚えたら、修行をしたことも忘れてこそ、無心になれますが、それまでの修行無くして、無心になれる訳ではありません。人は生まれた時は無心で、育つほどに無心が失われてしまいますが、その無心を目指すのが、夢窓国士の教えで、それを庭で表現したものが 瑞泉寺の石庭なのかと存じます。
「命がけの大変な時代を生きた方たちからすると 今の私の悩みは なんてちっぽけな悩みだったかと、そのように思いました。」
「お嬢様、でも、疲れたら また、メルヘン風車に 乗りに来てくださいね。」
「メルヘン風車」瑞泉寺の旅 二の鳥居の前で 終点です。

 

鎌倉メルヘンの旅とは

不思議な人力車を譲り受けた「ぼく」が 不思議なお話をしながら
鎌倉のまつわる名所をめぐる物語