ある日、僕は不思議な人力車を北鎌倉の建長寺の天狗から譲り受けた。この人力車はカラス天狗の乗り物だったらしい。
天狗との約束事に、歴史を変えないこと、という約束がある。なぜ僕に天狗が人力車をくれたか?と聞くとお前が鎌倉で一番、暇そうだからという返事。喜んでよいのやらいけないのか わからないが、とにかく僕は人力車のお兄さんになった。屋号は、「メルヘン風車」
お話をしながら お客様の希望の目的地まで走る。
時々タイムスリップしながら 鎌倉の旅を ご一緒します。「お嬢様、今日はどちらまで?」
「そうですか、八幡宮ですね。」「出発しますよ!」
「海を背にしてまっすぐ北へ伸びる若宮大路を走ると鶴岡八幡宮です。この通りの真ん中の少し高くなっている道を「段葛」(だんかずら)と言い、神様がお通りになる道。
今は誰でもが通ることのできる道ですが、昔は源氏の将軍か北条家の執権の専用道路だったのですよ。」
「どうして こういう一段高い道を造ったの?」
「御台所 (政子)のご懐妊を祈り 頼朝の指示で行い
北条時政などもそれぞれ土石を運ばれたそうです。当時頼朝と政子の間には大姫という長女がいましたが、男子はなく
今度こそ跡継ぎの誕生を祈るため造ったと言われていますが 鎌倉に武士が集まってきて、あちこちに屋敷を造成したため、雨が降ると若宮大路に泥水が流れ込むようになり、神主、将軍らの為に段葛を造成したというのが、実情らしいです。そんな話をしながら段葛の横の道路を走った。
「少し、タイムスリップしてみましょう」そう僕が車に言うと、人力車は、飛ぶように走ったかと思うと、風に乗って、ストンと八幡宮社殿に降り立った。舞殿では今、静御前が白拍子姿で踊っている。
工藤佑経が鼓を打ち、畠山重忠が小さな打楽器のような銅拍子を担当している。
「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
「しづやしづ しづの をだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな」
静御前はこの時 義経の子供をお腹に身ごもっていたので
初めは舞うことを拒否していたが、争いに巻き込まれる女性の悲しさと義経と一緒だった時に戻してほしいと頼朝に伝えるため、平和を祈りつつ、舞う決心をしたようです。
舞殿の中の人々は、静御前の美しい舞いに酔いしれていたが
頼朝は、真っ赤になって怒っている。「この場に及んでも
義経を慕うか!命が惜しくないのか!」
頼朝の怒声で 酔いからさめたように 皆はうつむき、
黙りこくったが、頼朝の正室 政子が頼朝をなだめている。
緊張感で 見ているこちらも どきどきする。
政子は自分の若いころを思い出し、義経に一途な静御前の思いを くみ取り 頼朝に落ち着くように伝えた。
「まぁ、良い。こちらになびかないのは悔しいが美しいものを見せてもらった。」そう言い捨てて、頼朝はその場を立ち去った。
「さぁ、静御前の舞も見たので、帰りましょう。ぐずぐずしていると、怪しまれますから。人力車にはやく乗って!」
人力車にお客様を乗せて「2019年 3月24日 鎌倉へ」
そう言うと、強い風がサーッと吹いたかと思うと現代の鎌倉 鶴岡八幡宮に到着していた。
「ねぇ、人力車のお兄さん、静御前の赤ちゃんはどうなったの?」
歴史では、「女子であれば母である静に与えられたが残念ながら、男子であったので、頼朝の命により、由比ガ浜に捨てられた」そう、記録されています。
でも、本当は、鎌倉には 隠れ里といわれるところがあって
そこへ赤ん坊を託したそうです。のちに静御前は解放され
隠れ里で赤ん坊を受け取って、故郷へ連れて帰り育てたそうです。でもその子を争いごとに巻き込みたくなかったので、決して父親の名を子供に伝えることはなかったそうです。
隠れ里とは、今の鎌倉の佐助稲荷や銭洗い弁財天付近の地域です。
「すると、ひょっとして、今もどこかに義経の子孫がいるということですか?」
「そういうことになりますね。」
「昔は一夫多妻制だったので正室のほかに愛妾もたくさんいました。知られていない頼朝や義経の子孫が今もいます。
当時は言うとややこしいことになるので よほど身分の高い家柄でないと、自分の本当の名前や経歴を口外しなかったそうです。」マイナンバーとか もちろん無かった時代のお話です。
三の鳥居を入ったところに源平池があります。両方の池中に初めは四つの島を築いたが 東の池の一島を壊して三(産に通じ繁栄を示す)島とし、西の池は四(死)島のままで東の池に源氏の白い蓮を植え、西の池には平氏の赤の蓮を植えたとされています。東の源氏池の一番大きな島に弁財天が祀られています。源頼朝が伊豆で源氏復興のため旗上げしたので
旗上げ弁財天と言われます。白い花の咲く藤棚の奥に祀られています。
この近所には、政子石という石が あります。
安産、縁結びの力があるとされ、また夫婦円満のご利益があるとして信仰されている石です。
あと、何といっても有名なのは大イチョウ
隠れ銀杏と俗称する楼門へ上がる石段のわきのイチョウが倒れたのが、2010年3月のことで今は根に近い部分だけが保存され「ひこばえ」が育っています。
なぜ、隠れ銀杏と呼ばれたか?というのは源頼朝と政子の次男 源実朝がこのイチョウの木陰に隠れていた甥の公暁(頼朝の長男頼家の子)に暗殺されたことからです。
公暁はその後 縁のある三浦義村の屋敷に向かったが義村が従者に公暁を討たせた。それで頼朝の直系は絶えたのです。
なぜ、こういうことになったのか?
北条義時の陰謀説や三浦義村の陰謀説がありますが
僕が 白い鳩から聞いた話では、自業自得だと。
公暁が父の敵だと思って殺した相手 源実朝が実は父の敵ではなく、北条氏だったのに その北条氏にそそのかされて関係のない実朝を殺してしまったからだと。
この事件で時代は源氏将軍から北条執権へと転回しました。
当時は正室である政子が認めれば側室の子供が家を継ぐことも出来ましたが、政子は一夫一妻制を望み、認めなかったので結果的に源氏は 実朝以降 継ぐ人がなく、3代で終わったのです。頼朝亡き後、長男頼家と次男実朝は暗殺され、裏で工作していた父 北条時政の伊豆への幽閉を決めるなど、苦難の連続でしたが実の弟 義時と北条氏執権政治の基礎を作ったということです。
八幡宮境内の白旗神社には、源頼朝と実朝がお祀りされています。白旗というのは、源氏が目印とした白旗にちなんでいます。鶴岡八幡宮の本宮のご祭神はご存知ですか?
安芸の厳島神社への信仰により 一門を結束していた平氏政権にならって、京都の石清水八幡宮から、八幡神という武神をご祭神として鎮座したものが、ここのご祭神で
応神天皇 比売神、神功皇后です。
応神天皇は、「八幡さま」として広く親しまれる八幡神社の祭神です。比売神というのは、玉依姫のことで応神天皇を育てて、のちに応神天皇の子供を産んだ妻でもあります。
「神功皇后」は「魏志倭人伝」に登場する「卑弥呼の宗女(一族の女)・台与・トヨ)であり、応神天皇の母です。
「神功皇后」は、三韓征伐で高句麗、 新羅、百済を制圧したとき、彼らは「我ら日本国の犬となり日本を守護します」と誓ったとされ、この名残が神社によくある「狛(高麗)犬…こまいぬ」ですが そんな「ヤマト建国」前後の女傑だったので 武士の国を作る頼朝や政子の願いに近く、鎌倉の地に勧請したとされます。また、本殿と宝物殿の間に武内宿禰を祀る武内社があります。
武内宿禰も神功皇后の補佐をして応神天皇をお守りしたと言われる方です。全て、白い鳩から聞いた話ですから、歴史とは 少し違うかと思いますが。
「鳩から聞いたお話だったのですか?」
「そうです。でもお嬢様、鳩を馬鹿にしてはいけません。
鳩は、この鶴岡八幡宮の神使いなのですからね!」
八幡宮は鎌倉をはじめ、大分の「宇佐神宮」や京都府の「石清水八幡宮」などから日本に数カ所点在していますが、これらの八幡宮を移動させる際に、鳩が道案内をしたという伝説があるのです。鎌倉幕府時代の武将は、戦での勝運を呼ぶ鳥として鳩の絵柄を家紋に使い、八幡信仰が栄えました。鳩は出陣の際の勝利の鳥としても今も鎌倉にはたくさんいます。
さて、八幡宮の行事として毎月いろいろありますが、
その中でも有名な行事は
2019年 第61回 鎌倉まつり
4月14日(日)~21日(日)
現代の静の舞や、流鏑馬があります。
何頭もの着飾った馬が 段葛の横の道路を行進する様子は
見ごたえがあります。
今度 鎌倉へ来られた時、ぜひまた、ご一緒させてください。
「メルヘン風車」鶴岡八幡宮の旅 二の鳥居の前で終点です。
鎌倉メルヘンの旅とは
不思議な人力車を譲り受けた「ぼく」が 不思議なお話をしながら
鎌倉のまつわる名所をめぐる物語